資料書 [金剛座寺の歴史]
ポケット絵本27・日本の伝説『たまとり』文あきせいじ 絵たかやまひろし いずみ書房
金剛座寺の縁起譚になる、志度寺の海女縁起の絵本が購入入手できました。
いずみ書房HPにデジタル公開されておりますのでご覧ください。http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c01_dowa/tamatori/index.html
金剛座寺縁起はこの後の続きになります。この後 立派な役人になった房前公は、母が自分のためになくなったことを知り、母の供養のために志度寺に供養をされます。(ここは能である『海士』で語られる物語です。ここからは金剛座寺の伝承)。その供養品の一つに行基菩薩に彫らせた如意輪観音様がありました。母の供養を知った父不比等公は感銘し、伊勢領にあった金剛座寺も母の菩提寺と定め、如意輪観音像を金剛座寺に遷座し行基菩薩に開眼せしめたということです。その時に行基が脱いだ衣をかけた楠木が「衣掛けの楠」と名づけられたそうです。以後、金剛座寺の御本尊は「志度の観音さん」と呼ばれ、女性守りの御本尊として、また同業の志摩の海女さんたちの守護仏として信仰されてきました。
物語は、たまとりから必ずしも史実ではありませんが、母子の愛情と女性の人たちの成仏という願いが培ってきた伝説であると思います。やさしい慈母の顔を持つ金剛座寺の観音様はお参りに訪れる多くの女性を救ってきたことでしょう。
客殿の瓦 [金剛座寺の歴史]
纒向(まきむく)遺跡と金剛座寺 [金剛座寺の歴史]
現在、奈良県桜井市の纒向遺跡が話題になっています。
調査が深まるにつれ、遺跡の大きさと出土品などから、卑弥呼の邪馬台国の場所ではないかと言われています。
この纒向遺跡の調査結果は金剛座寺史を考察するにも、大きな手がかりになると思われます。
纒向遺跡のある地域には、金剛座寺穴師神社の元社である穴師座兵主神社(穴師山)が入っているのです。
天照大御神のモデルは卑弥呼ではないかとの説がありますが、そこから天手力男命との接点もでてきます。
穴師は元伊勢一番目の笠縫邑(かさぬいむら)の比定地です。
金剛座寺のとなりにある松阪市中万の乳熊寺は元伊勢の神山の地ですが、神山は天手力男命を祀る佐那造の関係があります。
卑弥呼が天照大御神のモデルであるならば邪馬台国が桜井市にあっても不思議ではありません。
金剛座寺境内地にあると言われている横穴式古墳ですが、もし邪馬台国⇔穴師⇔金剛座寺との関係があるのであれば、関連があるものが出土するかもしれません。ますます興味が広がります。
今後の纒向遺跡の調査結果を楽しみに、あらためて横穴式古墳発掘への意欲が高まりました。
新資料発見 [金剛座寺の歴史]
8月お盆に檀家総代さんから、「明治19年、20年、38年に作成された金剛座寺の書類を蔵で発見した」とのことで、奉納いただきました。
この新資料のおかげでいろいろな事がわかりました。
本堂建立年が、寛永21年 (1644)、今迄は万治年中(1658)の建立説でしたので、14年遡ぼることになりました。
また、今までは良珠中興が寛永17年に金剛山に入山してから18年後の本堂建立では、あまりにも時間がかかり過ぎなのではと思っていましたが、入山から4年であれば時間的なツジツマが合います。
築365年となり、現在でも多気町で最古の建造物でしたが、更に遡ったことになります。
そして正確な年代が不詳だった客殿の建立が、天保10年(1839)と判明、築170年の建物、
庫裏の建立が、慶応2年(1866)の再建と記されているので築143年の建物とわかりました。
山門が万治元年(1658)年の建立と記載されており、これが以前の本堂の建立年説の根拠になったものと思われます。
そして、不明であった金剛座寺の院号も記載されておりました。
金剛座寺の院号は、「正法院」と記載されております。
正式名称は、「摩尼山正法院金剛座寺」となります。
貴重な資料をいただき有難く思いました。
これから、更に調べていく予定です。
新たな発見 矢土錦山の書 [金剛座寺の歴史]
旧客殿に掛けられている扁額の書「広橋住職への為書」がありますが、隣町玉城町の名士、矢土錦山の書であることがわかりました。
矢土勝之(錦山)は、漢学者・詩人として名を得ていましたが、その能力を買われて政治家となり、伊藤博文総理大臣の知恵袋として活躍しました。
伊藤博文暗殺後、政治家を辞し玉城に隠棲され大正9年に亡くなっています。
書は、「長歌行」の一説で、「朝露待日晞」 (朝露 待日を待ちて晞(かわ)く)
意味:朝露は太陽が登るのも待って乾く。
春の満ち満ちる生命の働きを表している一節で、下の句にはそ、れも秋には衰えていくことから、若くて元気なうちに努力をしなさい、という内容の長歌です。
金剛座寺の古墳研究 [金剛座寺の歴史]
先日、郷土史家の海住先生にお会いする機会がありましたので、金剛座寺に古墳があることをご報告しました。
すると海住先生から、多気町では多くの古墳が発見、調査、確認され、多気町史に記載したが、佐奈地区には古墳が発見されず記載できなかったそうで、それは新しい発見だとお言葉をいただきました。
いよいよ草が少ないこの冬から古墳の調査を始めたいと思います。
穴師神社史考察 [金剛座寺の歴史]
金剛座寺の発祥と考えられる式内穴師神社は、現在比定地は松阪立田町の穴師神社となっています。
その松阪穴師神社にはヨイヨイ神事という祭があります。その祭の縁起には、頼って逃げてきた主君源義朝を裏切り騙まし討ちした家臣長田荘司忠致が、父の敵討ちの源頼朝に追われ伊勢から佐奈そして立田に逃げこんだところで斬首されたとされ、その後凶作が続いたところから、祭りが行われるようになったといいます。ただし長田忠致が伊勢で殺された史実はなく、なぜまったく関係のない長田忠致がそのような伝説が付加されたかは解っていません。江戸時代に流行った長田の物語が凶作の問題と混同されたとも考えられています。
それでは穴師神社と長田忠致はまったく関係性がないのかといえば金剛座寺穴師神社を通すと接点が見えてきます。一つは逃亡先の一つに佐奈が入っていること。佐奈は松阪穴師神社の一族の故郷といわれ、それは金剛座寺の穴師神社といわれています。
もう一つは、騙まし討ちがあった長田忠致の領地は、尾張野間(現在の知多半島美浜町当たり)なのですが、鎌倉時代の金剛座寺の僧侶の写経がある羽豆神社が同じく領地のエリアであったであろう美浜町の隣の南知多町にあります。つまり金剛座寺と長田忠致が納めていた尾張野間には接点があるということです。また知多半島は伊勢との船交易がありますので、伊勢から入ることも可能です。なぜ金剛座寺と羽豆神社が繋がっているのかがまだわかりませんが、長田忠致の物語が付加されるルートは金剛座寺穴師神社にはあることがわかります。
『横穴墓古墳』の少し考察・・・ [金剛座寺の歴史]
横穴墓のある場所は、古老から『昔は丹生(水銀)で発掘をしていた罪人の処刑場だった』という話を聞いたことあります。
丹生の発掘に罪人を使っていたことはあるかも知れませんが、なぜここがその処刑場だったのか。
わざわざ罪人を丹生(地名)から遠くこんな高い場所につれてくる必然性がありません。
なぜ処刑場という言い伝えになったのか?
・・・・それは遺骨が発見されていたからではないかと推察します。
横穴墓ですから遺骨があってもおかしくありません。
それが処刑場というイメージを作ったのではないかと思います。
金剛座寺・穴師神社史 新仮説への手がかり。 [金剛座寺の歴史]
先日、テレビ番組で「邪馬台国四国説」が紹介されていました。
学術的には九州説と近畿説が定番ですが、最近、四国阿波地方に
古墳郡がたくさん発見されたことから、四国説が俄然現実味を帯びて
きています。
さて、テレビでは、位の高い方のであろう古墳群を初め、四国説の根拠
となる、古代の丹生(水銀)の産地があること、古代から天皇家に仕える
阿波忌部氏の出身地であること。
そして近畿の地名が阿波周辺にたくさん存在することをあげていました。
四国から大和へ移住したのではないかという考えでした。
卑弥呼は天照大御神だという説があります。
もし四国が邪馬台国であるならば、天手力男命に関係するものが
あるかも知れないと「徳島 天手力男命」でネット検索してみると、
なんと・・・「忌部神社」がヒットしました。
忌部神社は忌部氏の神社です。
忌部氏の祖神は天児屋命で天手力男命と共に天の岩戸開きに活躍した神です。
そして地名の佐那を徳島で検索するとなんと・・・「佐那河内村」の村名が!
そしてそこには天岩戸別神社があり、天手力男命が祀られています。
天岩戸開きに貢献した神の子孫、忌部氏と佐那造は水銀を扱っていた
一族なのかもしれません。
佐那のとなりには古代の大水銀地であった丹生があります。
伊勢の水銀を抑えるため四国からこの地に移ってきたとも考えられます。
穴師一族は鉱山関係の一族ともいわれています。
点と点が繋がりました。
これから邪馬台国四国説の視点からも穴師神社を調べていきたいと思います。
歴史に関する新資料発見 [金剛座寺の歴史]
大西源一先生の子息であり郷土史家であります大西春海先生より、貴重な昭和26年発行の『三重郷土会会誌26』をお借りすることができ、新しい歴史資料が入手できました。本誌には『佐奈村の金剛座寺と羽豆神社の写経』伊東富太郎著の論文があることを知っておりましたが、資料が古くて少なく図書館にもありません。大西先生の鹿東文庫から見つけていただきました。
愛知県師崎の羽豆神社には古い大般若経写本があるのですが、その中で少なくとも11巻には金剛座寺または関連の銘が入っています。一番古い年代で元徳元年です。西暦でいうと1329年の鎌倉時代になります。金剛座寺は古い歴史を持つものの1640年の良珠上人が入山した中興以前で金剛座寺を特定できる歴史資料がありませんでした。また旧寺名の穴師寺から金剛座寺の改名時がどの時点かわかっておりません。この写経奥書には、金剛座寺の銘がありますので、室町時代の1396年時には金剛座寺として存在していたことが確認できました。また当時の金剛座寺の僧侶名も、「栄珠」「如珠」「盛珠」「覚白」「慶音丸」「栄禅」が登場します。なぜ金剛座寺で書かれた写経本が羽豆神社に奉納されているのか?今後も詳しく調べたいと思います。










